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熊の背に揺られて
わたしは安堵していた
たくましく
毛の深い熊は
わたしが乗っていても
重心がぐらつくことはない
どしんとした体躯で
爪もがっしりと
大地についている
わたしはこの背にいることで
わたしという存在が
安泰だと感じる
自分一人では得られなかった
腹の底からの安心感
こうして大きな背中に乗って
揺られながら
運ばれていると
守られていると感じるし
やっとこの暖かさに
出会い
見つけてもらえたと感じる
それは一番に
わたしの心を落ち着かせるものだった
そうして揺られていると
熊は歩を進め
森を抜け
草地を渡り
他には何もない
岬についた
そこからさきは
水平線が見渡せる
海が広がっていた
わたしを乗せてきた熊は
海の方に向かい
わたしを背に乗せたまま
ゆっくりと
何かに届けるように
咆哮を上げた
大きな声が
海に響いた
振動が伝わってきた
わたしは熊と一緒に
少し震えながら
波がきらめくのを
見ていた
わたしはいつしか歩いていた
茶色く長い毛が生え
ずんぐりした体で
のっしのっしと歩いていた
わたしの背には
誰かが跨っている
顔も知らない誰か
いつから乗せていたのかは定かではないが
わたしはこの誰かが背にいることが
嫌ではなかった
背にいるもののことを考える時
どこか懐かしいような気持ちになった
わたしは住んでいた森を抜け
草地に足を踏み入れた
馴染みの森から出るときは
注意しなくてはならない
なわばりの外だからだ
草地は身を隠すものがないので
わたしに向かってくるものがいたら
一目で見つかってしまう
草地には出ないようにしていたから
最初の一歩を踏み出すときは
肩がびくりと震えた
ちらりと背を振り返ったが
わたしに乗っているものは
わたしの震えには気がつかないようだった
怯えるそぶりを見せない
わたしの背中にいるもの
草地を歩く警戒は
怠らなかったが
わたしは
安心している背のものの気配が伝わり
危険と承知しつつも
今は、大丈夫
という柔らかな確信を覚えていた
草地を歩いている間
なんの気がかりなことも起こらず
初めて歩ききったこの平野を見返して
わたしは不思議に思った
いつもの一人でいる方が
さっと身を守れるし
攻撃に備えることもできる
素早く逃げることもできるのに
今こうして
背にいるものと一緒に歩いてきたら
いつもほどの怯えた心地がせず
追ってくるものもおらず
こうしてなわばりの外まで
悠々と移動してくることができた
熊は
自分がなぜ草地を渡ってこられたのかは
わからなかったが
背にいるものの存在が
自分を悠然といさせてくれたことは
はっきりとわかった
熊は
新しい生き方を
見つけたような気がした
やがて岬についた
ここは熊にとって
生まれてから数回しかきたことがない
聖なる場所だった
海の中で生きるすべを持たない熊は
自分が住む世界と
全く違う構造の海に
畏怖の心を持っていた
同時に
圧倒的なひらけた空や
どこまでも続く水平線に
うつくしさや
憧れを覚えていた
岬は
自分と海との境界線
憧れのおそろしい場所への橋掛り
さっきの草地を歩いてきた心地が
熊を少し高揚させていた
この背のものがいれば
これまで立ち入ったことのない場所へ
近づいていけるのではないか
草地を渡ったように
海のそばへ降りられるのではないだろうか
背のものは
ゆったりと構え
落ち着いている
熊は一度
ぶるると身じろぎして
腹の底から
自分の声が湧き上がってくるのを感じた
そして
海に向かって
わたしはここにいる
という呼びかけを
震える喉から大きく海へ放った
海も空も
わたしの眼差しや
熊の呼びかけを
すうっと吸い込んで
何事もなかったように
ヒラリヒラリと波の光を返している
わたしも熊も
一番欲しいものを
手に入れた
どちらもお互いが自分の一部だと
感じていた
わたしのうちにある
熊
熊のうちにある
わたし
一つの体の中にある
二つのものが
出会ったことが大切なのだ
海の光が反射するのを見ながら
自分の中に
二つのものがあることを
知って
わたしは
やっと
地面に
二本の足でちゃんと
たったような気がした
海を見ながら
わたしはとても
しあわせだった
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