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わたしは泳いでいる
座り慣れた
畳の敷物から
腰を上げて
砂浜を歩いて
海に入った
ずっと座っていたから
腰や頭が
硬くなっていたけど
海に入ったら
体の境界線が薄くなったみたいに
気持ちが良かった
ジャバンと打ち上がる波を
かいくぐって
わたしは海を泳いでいた
正確には
泳いでいるというよりも
波を浴びるのが気持ちよくて
海の中に行こうとしていた
泳ぐのは
進みたいからだけど
わたしが味わいたいのは
この波がわたしの肌に当たる圧や
水の感触
エネルギーが直に飛び交う波の中にいると
わたしの味わい力が
嬉しいほど発揮されて
わたしは満足できる
こんなに気持ちがいい
波をくぐる遊びは
わたしが生きている醍醐味だなと
わたしはちゃんとわかっていた
そのことも嬉しかった
用意された喜びを
世界の中から見つけ出していたし
そこにちゃんとたどり着いて
全身で味わっている
「うれしい」の塊になっていた
足の先の方で
ひやりとした
温度が低い波を感じた
今まで遊んでいた波とは
全く違う感覚に
わたしは少しブルっと震えて
今度はその
温度が低い方の波に
興味が注がれていった
面白そうというよりも
畏怖の感覚
怖々ながらも
これは真に価値のあるものだと
頭の奥で声がしていた
足の先に感じたひんやりを
少しづつ
追いかけて
わたしは海の中に
潜り込んでいった
最初にいた砂浜からは
だんだん遠のいて
足のつかない
深い場所まで
わたしは泳いでいった
初めて
わたしは
先に進むために
「泳ぐ」をやった
グイグイと
そして
心がシーンとする心地
それから
どうなるかわからないものを
追いかける
不思議な気持ち
先に何かがあると知っているが
それが何かはわからない
何かを感じ取っている
自分の皮膚の感覚だけが
わたしの道しるべだった
しばらく足の泳ぎだけで
青く 光の届かない場所を進んでいった
この先には
何かがある
この先には
何かがある
そうやってだんだんと
波間で遊んでいた頃には
近づかなかった
海の中の岩山までやって着た
濃い青の視界の中に
石のザクザクした形と
硬く集積した大きな存在感がある
黒い岩肌に手をそっと当てて
わたしは
先に何かがあるという確信にしたがって
今度は岩山のてっぺん辺りから
海底の方へ
石を踏みながら歩いていった
自分一人で歩いている気がしたが
ふと上の方を振り返ると
かつてわたしが一緒に戯れていた波たちが
光に透けて
キラキラと
動いているのが見えた
離れているのに
その姿を見たら
わたしは
わたしだけで
自分の冒険をやっているんじゃないんだなぁ
わたしに力を与えてくれた
わたしの心の一部を
交換したものたちが
わたしの喜びなんだなぁ
と安心がジワリと湧いてきた
そして
小粒だった安心が
胸の中で
だんだん膨らむのと
連動して
今まで歩いていた
黒い岩山が
メリメリと
音を立てて
避けていった
古い樹の幹が
内側から弾けるように
黒い岩肌は
まるで
繊維質が
内側から
筋を開かれたように
裂けていった
そしてそこには
海の底から岩肌へと大きな亀裂が走り
その中に
透明度の高い
石の結晶が
びっしりと埋め尽くされていた
胸がドキドキして
幻を見ているようだった
わたしは本当に驚いて
さっきまで
黒くゴツゴツした重たいだけの存在だったのに
こんなに溢れかえるほどの
澄んだきらめく石があったなんて
頭の中で
今までの価値観が
メキメキと音を立てて
ひっくり返っていくのがわかった
そして
頭に続いて
体がだんだんと物質の組み替えが起こり
わたしの体は
躍動的なイルカになっていった
まだ驚きと
ときめきが
ぐちゃぐちゃに入り混じっていたが
イルカの体に任せて
動くままに
あたりを泳いでいたら
びっくりした感情は
発散されたみたいで
だんだん
また「うれしい」が
蘇ってきた
ああ
うれしい
わたしはイルカだった
哺乳類だけど
人じゃなかった
こんなに自由に動き回れる
うつくしい筋肉と
ひかるボデイの
イルカだったんだ
岩肌からのぞいた
結晶のあたりを
その反射光を浴びるように
くるくると泳ぎ回った
わたしは「うれしい」
を表現する
一番ぴったりの体を
ついに自分にプレゼントすることができた
よかった
わたしは
1番の
わたしに
なった
波も
岩山も
海底も
石の結晶も
わたしに優しかったことを
わたしはまた
安心して
身体中で味わった
わたしは
イルカになっても
やっぱり
うれしかった
よかったな
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